「元禄忠臣蔵「御浜御殿綱豊卿」」
2019年3月20日
国立小劇場に歌舞伎公演で出演するのは本当に久しぶりです。
曽根崎心中の"お初"を初めて努めたのがこの国立小劇場でした。
今回、「日本博」のイベント開幕の記念公演と銘打たれた舞台となり昨年末に出演のお話を頂きました。まずなんの演目を上演するかのご相談を国立劇場のプロデューサーの方から受けた時に私の心の中にもいくつかの演目があったのですが、まずおっしゃってみて下さいと申しましたら、「元禄忠臣蔵「御浜御殿綱豊卿」の徳川綱豊を。」と伺った時に実は「えっ」と言いました。
全く想像していなかった演目、役名でした。3月は歌舞伎が多くの場所で開くので義太夫狂言はできませんと松竹からまず打診があったとのことで、その中から考えた演目とのお話でした。自分の綱豊卿がイメージできず即答は勿論できず、「他に選択肢はございませんか?」とも言いましたが、是非との言葉をかけられ「考えさせて下さい。」とお返事しました。
役者にはニンにあるないという言葉が使われますが役どころと本人の持っている資質との兼ね合いのようなものです。この役は立役を長きに渡って努めていね役者さんのすべき役ではと思っていました。近年、私自身も立役は増えてきていて、上方の立役は、特に曽祖父初代鴈治郎の努めた役々は意識して継承したいと思っているところですので、この役を私にと考えて下さった国立劇場の方のお気持ちもよく理解できたのですが、真山青果の作品自体出演経験も少なく、躊躇していました。
しかし、いろいろと考えるよりも私自身が思っていないことを考えて下さったご縁を活かすべきだとの考えが強くなり、後日お引き受けする旨をお伝えしました。
さて、この役作りですが、近年では仁左衛門のお兄さん(昨年の7月の松竹座で私は江島を努めています)、梅玉のお兄さん(お喜世を努めました)、吉右衛門の兄さん、三津五郎のお兄さんや後輩の役者さん達も多く努めている演目です。
美保先生の演出での上演です。
亡くなった真山美保先生ともお仕事ご一緒して八王子の新制作座にお稽古に訪れた経験もありますが、亡くなった現在は演出にいらっしゃる方もいらっしゃいません。
父は真山作品は初演当時と真山美保さんの演出は違うよとよく言っていました。
美保先生は大学ご卒業後はお父様の元を離れられていたからね。等と話していることを記憶しています。
今回の上演にあたり私が元としたものは昭和44年の守田勘弥さんの綱豊卿です。真山青果初演の流れをくみ幸い映像が残っている事で参考にいたしました。ご本人の芸談も参考にさせていただき、通常公演では最近多くの部分をカットしているので原作を読み直すことから取り組みました。
やはりこの作品は原作を読むと非常に台詞にして喋るには説明や人間関係、この場に登場しない人々の人間関係などかなり複雑になっています。綱豊卿の台詞にも若干の矛盾が生じる部分も見受けられます。勘弥の叔父さんの映像も台詞を大胆にカットなさっています。また台詞を謳う箇所も案外抑えてらっしゃいます。
一度真山青果先生にお会いしてお話を伺ってみたいと無理な話ですがつくづく思いました。
膨大な台詞を覚えることも大事ですが何と言っても綱豊卿として見えるかどうかここが最大のポイントだと思って臨みました。まず、出てきた瞬間の存在感がなればこの台詞劇は引っ張っていけません。
新井白石に心情を吐露する場面がこの人物を一番表している部分かも知れません。
そして助右衛門とのやり取り。これも初役の歌昇君とのせめぎ合いはお互いの立場を踏まえつつの応酬。そして綱豊は本心を吐露せず相手の本心を吐露させようとしつつ自分も徐々に本心を吐露していく。
その緊張感にこの演目の醍醐味があるのでしょう。近年最も多く演じてらっしゃる仁左衛門のお兄さんに教えて頂くかどうか悩んだのですが、今回は自分なりに今できる綱豊卿を作る事に致しました。昭和44年の守田勘弥の叔父さんの映像と仁左衛門のお兄さんの綱豊卿がかなり違っていたこともその考えに至る要因の一つでもあります。
かつて初日を迎え様々なご意見が耳に入って参りましたが何よりもこの役を発案して下さった国立劇場のプロデューサーの方に感謝申し上げます。一つの新しい面が自分の中にあったことを気づかせてくださいました。
機会があれば上演台本を練り直して是非また勤めてみたい役となったことは間違いありません。
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