2020年12月記事一覧
「四十九日法要」
2020年12月31日
昨日12月30日に父の四十九日法要を青山妙円寺さんにおいて家族と一門で執り行いました。
そして「妙藝院殿藤久日宏大居士」という法号を父に授与して頂きました。
歌舞伎座の舞台稽古も29日で終わり今年を父の法要で締めくくる事となり、コロナで揺れた激動の一年が終わろうとして居ます。
改めて父に賜りました数多のご厚情、ご声援に心より御礼申し上げます。
今年の漢字一字を「旅」としましたがこれで父も旅立ちの準備が整いました。
先日還暦を迎えた私自身、世阿弥の初心不可忘の言葉を改めて思い起こし、新しいスタートと思っています。
本年も一年ありがとうございました。
「古典芸能への招待「京の師走の華 顔見世歌舞伎」」
2020年12月26日
12月27日(日) 午後9:00~午後11:00(120分)
19日に千穐楽を迎えた今年の南座顔見世興行の出演演目が抜粋ではありますが明日放送されます。
『傾城反魂香』土佐将監閑居の場
女房おとく
又平を努めた兄鴈治郎との対談の映像もございますので是非ご覧下さい。
「還暦」
2020年12月23日
12月19日に還暦を迎えました。
シニア入りです。孫がいてもおかしくない年齢です。事実同級生には孫のいる友人はすでに大勢います。
誕生日というものは毎年来るわけで60回と回を重ねてくるとありがたみも薄れてくると思うのです、が還暦は別でした。干支が一回りしての再スタート。
還暦の赤は赤ちゃんに帰るや、魔除の赤などの由来があるそうで赤い物を送られることが古来から慣習化されているようです。
コロナ禍ということもあり人の集まりには細心の注意を要しますが、還暦はお祝いをして頂くのではなく自祝するものと以前聞いた事があり、友人を招いて振る舞うことが良いとされているらしいのです。その慣例に倣い知人を招いて自らの再スタートを自祝しました。
ケーキも今年の顔見世の役"おとく"をあしらった物、和菓子で定紋を象った物、お寿司でできたデコレーションなどいただき、感謝の言葉しかありません。
今年は顔見世が19日千穐楽とコロナの為に短縮され、当日は一部に出演のあと東京に戻るので前日の18日に会を開くことに決めその時点で、12月19日生まれの友人2人も参加可能ということで、同じ誕生日を3人で祝う楽しい会となり、当日お決まりの赤のチャンチャンコが用意されていて、それをまとい赤ちゃんに戻るがごとくリスタートの儀式を友人に囲まれ挙行しました。
7歳離れていますがインテリアデザイナーの森田恭通さん(右)と一回りしたのDEAN & DELUCAの横川正紀さん(左)皆12月19日生まれの仲間です。
そして菊正宗が大好きな私にとって最高のプレゼント、株式会社JAPAN CRAFT SAKE COMPANY代表取締役の中田英寿さんと菊正宗酒造の嘉納次郎右衛門さん(左)から中田さんの発案で還暦祝いのデザインされた樽酒四合瓶をサプライズでプレゼントされこんな嬉しい事はありません。
HIDEこと中田英寿さんとは長いお付き合いでヒデ、ヒロちゃんと呼び合うなかで平成中村座や各劇場にタイミングが合えば見に来てくれ食事をしに行く友人です。嘉納さんは僕の菊正好きからご縁が出来て、彼の結婚式で祝舞を踊った仲です。
自身も何か赤いものをと思いiphoneのカバーを赤を購入。
現代では還暦はまだ通過点に過ぎなくなって来ている気がします。
特に歌舞伎役者は舞台の積み重ねが財産となり、舞台にその成果が年齢と共に現れてきます。父も鴈治郎襲名は58歳でした。それから30年もの舞台人生を送り旅立ちました。
コロナ禍、公演そのものが自粛され一公演に一演目出演が続く今、これを受け入れることから始めなくてはならず、製作費削減やリモートでの様々な発信など制約の中、気持ちだけはしっかり持ち、身体を作り自分自身を律する生活の中から、新しい事も赤ちゃんが知識をスポンジで吸い取る如く吸収していくようにとはいかないと思うけれど、赤ちゃん帰りした還暦で自分を見つめ直す作業に追われています。
映画ワンダーウーマンを見に行くのに、ネットでチケットの券種を選ぶ時シニア60歳以上¥1.200をクリックして嬉しいやら悲しいやら複雑な心境であったことは間違いありません。
なおテキスト、画像等は個人の肖像権もありますので無断転載を固くお断りいたします。
「「旅」」
2020年12月19日
本日12月19日例年より一足早い京都顔見世興行の千穐楽をコロナによる休演日もなく無事に迎えました。
年末に1月興行の稽古はありますが、お客様の前での仕事納めとなります。
今年はコロナの影響直撃で数えるほどしか舞台に立てず、務めた役の数も僅かでしたが、私自身は何とか健康を維持し努めることができました。
大向うもなく、客席も間引き、演出も変え、公演時間を短縮し、山台にのる演奏者は黒の布で顔を覆い、会話を抑制して頂き、食堂や物販の楽しみも減らして頂きもう数え切れない程の制約の中での上演にご来場頂いたことへ心から感謝申し上げます。
元の状態に戻るにはどれだけの時間が必要なのか全く予見できないことのもどかしさは、ストレスとなって溜まっていることは間違いありません。平常心を保つことの難しさは並大抵ではありませんが、社会全体がそうなっているので受け入れるしかありません。
そんな中でも今年もご来場くださった皆様に、改めて感謝申し上げます。
ありがとうございました。
先日、今年の漢字「密」が発表されました。
私なりに今年の漢字を考えたところ
「旅」
という言葉が浮かんできました。
11月12日10時42分
父が旅立ちました。
そして今年は旅が全くできませんでした。
歌舞伎興行も12月の南座で旅の公演が再開しました。
そして12月19日に還暦を迎え、父が亡くなった事と60歳を迎えた事で新たな旅がスタートした思いです。
旅をすることで見聞を広め多くの新しい出会いがあり一段一段成長し、人生といいう長い旅を自分で引いて行くレールの上をひた走っているのでしょう。
長い旅を終えた父から孫の虎之介が入れ替わるように顔見世に初出演し、まねきの看板がその変化を映し出していました。
まだ旅の途中ですが大きな駅に今立ち止まり次に乗り込む列車を決めている最中です。
その終着点で悔いのない旅を続けて行きたい。
父の死を迎え新たに力が湧く思いです。
今月の「吃又」のおとくは新たな旅の第一歩でしたが、前回お得を演じた後に又平を経験してからのおとくでしたので、又平の心の変化をより汲み取れるのではと思っていました。
けれども又平の創り方が違うとそうも言ってられません。夫婦愛を全面に出そうと思っていましたが、兄の又平の創り方ですとどうしても母性愛の強いおとくになっていたと思います。それも一つの作品としてのあり方です。
東京の歌舞伎座でも吃又が同時上演されていたので双方ご覧になった方はその違いを目の当たりにしたと思います。
またその役者によって変わるところが、また歌舞伎の持っている大きな魅力の一つなんでしょう。
本当に以前の日々に戻ることを願って還暦誕生日当日に、今年最後の千穐楽を迎えました。
「令和2年南座顔見世興行開幕」
2020年12月 5日
コロナ禍の中、厳重な感染対策を実施して「當る丑歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」興行が初日を迎えました。
しかし今年のまねきには父の名前がありません。
令和2年11月12日午前10時42分
父、4代目坂田藤十郎が既報のとおり身罷りました。
コロナ禍の現在、歌舞伎座や国立劇場でも役者同士接触を極限まで避けての公演中ということもあり、家族そして松竹株式会社とも相談の上、家族と一門のみで密葬を11月14日に都内の妙円寺にて執り行い、荼毘に伏しました。いずれコロナが収まり落ち着きましたらお別れの会を催す予定ですので、改めてご報告させて頂きます。
これまでご贔屓くださった皆様にはこの場をお借りして厚く御礼を申し上げます。
また、ブログの問い合わせ欄やメールに多くの弔意を賜りましたことも重ねて御礼申し上げます。
昭和6年の大晦日に2代目中村鴈治郎の長男として生を受け、10歳で中村扇雀を名乗り初舞台を踏んでから昨年の京都南座顔見世の舞台まで永きにに渡り役者人生を歩み88歳の天寿を全うし安らかな最後でした。
父の眠る顔にそっと手を寄せると冷え切った温度が肌から伝わり初めて死の実感を心に感じ、何かがすーと引いていく気配がして、肩の力が抜け一つの歴史の終わりを目にしそして次の瞬間、込み上げる使命のようなものが湧いて来たのです。
力を落とすというより力が込み上げるといった方が正確だと思います。
誰しも親の死を迎える時は平等に来るものです。私にもその順番が回ってきました。
昨年の顔見世興行中に転倒をして頸椎圧迫骨折を押しながらの舞台出演が皆様の前での最後の姿となっしまいました。
親子というのは何か感じるのか漠然と南座の顔見世は最後かも知れないと脳裏をよぎりました。昨年の千穐楽の舞台上の姿を目に焼き付け運命を受け入れる準備をしていたのかも知れません。
美しい役々は数多ありますが最後の舞台も目に焼き付けていただきたく、本人は嫌がるかもしれませんが、あえて最後の舞台を掲載いたします。
3代目中村翫雀から繋がる成駒屋の家系に生まれ、歌舞伎役者の道を嘱望され育ち、77年間という長い役者人生でした。その間映画の世界にも身を投じ扇雀ブームが巻き起こり文化芸術関係の賞や表彰を数多く受け華やかな生涯でした。
父の本名は林宏太郎(こうたろう)ですが、私の中では中村扇雀であり鴈治郎であり坂田藤十郎である感覚が強く強く残っているので、父の死というよりは一番身近の先輩役者の死と感じている自分が居ます。
子供の頃から林宏太郎としての父に触れる時間はほとんどなく、例えば一緒に出かけても有名人である両親は衆目の的となり中村扇雀としての顔が父自身の当たり前になっていたのです。そしてスターであり続けた父は自分の進むべき道一点を真っ直ぐ見つめて脇見はしない性格であったと思います。
そんな父の背中を役者の後輩として少し距離感を感じつつ見ていました。
手取り足取り何度も稽古をして教えるということはしないタイプの役者でした。役者になれという言葉も父の口からは聞いた記憶はありません。
祖父夫妻には役者になるんだよとよく言われていたような気がするのですが、父は子供のことは母に任せていたようです。
実家に稽古場があったのですが、父が稽古をしている姿は一度も見たことがなくまたそこでお稽古を付けてもらう事もありませんでした。それが当たり前のように育ったので大学を出て役者の道を再びと言いうか改めてスタートした時の私に、役者のイロハのようなことを説いたことはありませんでした。子供の頃に会話をする時間が普通の家庭よりも少なく、成人してからの息子と会話することに照れくささを感じていたのかも知れません。
兄と2人兄弟の私ですが、父と2人きりで食事に出かけたことなかったと思います。
舞台の上の父を見続けることが一番身近に感じる時だったかもしれません。もっとも愛したであろう「曽根崎心中」お初を舞台の袖で見ながらセリフを同じように言おうとしても呼吸法が解らず教えて貰おうとしても義太夫を勉強しなさいという教えでした。
身のこなしは日本舞踊を稽古しなさい。舞踊の先生に習った方が良いという考え方でした。
勿論その通りだと思いますし事実そうして私は歩んできました。
父は孤高の戦士のような側面を持っていたのではないでしょうか。目標を高い所に常に設定し自分を追い込んでいく、そんな強さを持ち努力は決して誰にも見せない。妥協をする事なく突き進む精神力を持っていました。
今日もコロナ禍の中、劇場に足を運んで下った多くのお客様を関係者一同細心の注意をはらう中お迎えし、静かに幕が上がっていきます。
全てのお客様に感謝すると共に父の名前のないまねきを見上げ自分の名前、子供の名前、兄の名前、おいの名前と視線を巡らせ改めてこの世に生を授けてくれた父に心から感謝をしそして父と同じ道を歩む幸せも感謝と言う言葉で締め括らせて下さい。