「阪神淡路大震災30年」
2025年1月17日
毎年この日が来ると扇雀襲名中座公演を思い出します。
震災から30年はそのまま扇雀襲名から30年と重なります。
発生時は宿泊先のホテルのベットの上でした。
かなりの高層階でしたのでホテルが折れるのではないかと心配になるほどの揺れでベットから降りてもすぐに立てない程でした。やっと立つことが出来た時には当時まだブラウン管のTVが台から落ち換気口からは埃の塊が落ちスタンドが倒れていました。揺れが収まり廊下に出てみるとそこには人影がなく館内放送もありません。おそらく早朝のことでしたからホテル側の体制も整って無かったのではないでしょうか。
前日に父の曾根崎心中お初1000回を迎え華々しくお祝いをした翌朝の出来事です。
襲名披露も一週間ほど残しての突然の自然災害に心の動揺と共に何をすべきなのかすぐに浮かばないものです。なかなか情報が出回らず徐々に神戸の映像が映し出され各地で火の手が上がり、高速道路の倒壊が映し出され大災害が映像として目に入ってきました。
中座自体も古い劇場でしたから被害が心配でしたが何よりも関係者に被災した方がいないのかが気になります。公演はもちろん中止と思ったのですが、松竹の判断は一時間開演を遅らせての上演決行でした。
中座に到着すると幸い建物の倒壊はなく屋根瓦が上から数十枚崩れ落ちていましたが、舞台機構に支障はないとのことでした。私達東京からの役者は近隣のホテルに宿泊していますので徒歩圏内ですが、働いている大道具さんや劇場係員の方や関西在住の役者たちは交通手段が確保できず劇場にすぐに来られません。それは観客の皆様も同じ事です。
かくて一時間ほどの遅延の後に十種香の幕が開き八重垣姫を努めたのですが、客席のお客様は200名にも届いて無かったのではないでしょうか。勝頼を努めて下さった富十郎のお兄さんも「本当にやるのかい」と劇場の判断に流石に驚いてらっしゃいました。被災者の方々のことを思うと複雑な気持ちでしたが、劇場に足をお運び下さった皆様には自分のするべきことを努めなくてはという気持ちが勝ちます。
翌日以降も公演は続きましたが、休憩時間にロビーに出て扮装のまま募金を募ったりはしましたが、自然の災害に対して自分自身の無力を感じずにはいられません。
私の母の生まれ故郷である兵庫県は子供の頃からよく遊びに行き馴染みの深い土地なので今も大阪公演の際には神戸に足を伸ばし好きなお店に通うようにしています。
京都と並んで第二の故郷です。その皆様に現地で歌舞伎の楽しさ面白さを広めたいと努めています。それが私のできる1番の事です。
改めて亡くなられた方のご冥福を祈ると共に自分のできるお芝居で皆様に喜びや生きがいを感じていただけることを目指し、今日も先祖から伝わった上方歌舞伎の真髄を東京の歌舞伎座でお見せしたいと思っています。
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